上町台地は北が天満橋、南が大和川までの南北に延びる台地の事で
南北は11kmあるのに対し、東西は3km弱しかないため
市内に不自然な高低差が結構あります。
大阪は坂が多いというのはこのことです。
南側は上町台地と言ったり、あびこ台地と呼び分けたり色々あるようですが
あびこ辺りは海抜が15mと低く、天満は35m以上あります。
一番いい場所に大阪城を築いたんですね!
元々は、織田信長が大阪に目をつけていましたが
豊臣秀吉が後を継いで、開発したという事です。
この上町台地を東西にまっすぐ区切って町名を決めていたため、
現在でもお隣さんなのに町名が違う場所が多く残っています。
また東西に下水を流すという工事も行いました。
さて、今回訪れたのは谷町4丁目。天満橋から続く熊野街道沿いの南江小学校です。
ここには太閤下水を実際に見学できる施設があります。
張り切って電話で予約をした所、土日は案内できないと言われました。><
外からでも窓から見学できますので・・。との事でした。
ブラタモリで見たので知っていましたが。。
太閤下水は現役で使われている日本最古の下水です。
400年前のもので、しかも太閤さんの作った下水が
今も現役で使われているってロマンがありますよね。下水ですが。。
堺筋の日本橋あたりにも確か太閤下水の石碑がありました。
見学できるのはここだけですが、あちこちに太閤下水が通ってるんですね。
下水の中はこんな感じなんですね。
平日だったらこの扉から降りる事ができるんですって。
ガスが発生するので、ガス量を調整する必要があり、
職員と一緒じゃないと入れないとか。
入りたいような入りたくないような…。
"豊臣秀吉による大坂城築城の際に原型が造られたと言われている石積の下水溝です。豊臣秀吉が大坂城築城に着手したのは、天正11年(1583年)のことでした。町づくりにあたっては、大阪が、淀川・大和川のデルタ地帯にできた低湿な土地であったので、道路整備と同時に町屋から出る下水を排水するための下水溝が建設されました。東西の横堀川に囲まれた城下町は、大坂城に向かう東西道を軸に碁盤の目に区切られ、その道路に面した建物の背中どうしのところ(裏口)に下水溝が掘られました。この下水溝は「背割下水」、あるいは太閤秀吉にちなんで「太閤下水」と呼ばれています。当時の大阪は、この太閤(背割)下水に挟まれた約40間(72m)四方の区画が町割りの基本となっていました。"
http://www.city.osaka.lg.jp/kensetsu/page/0000010446.html
この案内板を見ると切なくなりますが、豊臣時代にまで
さかのぼる事ができず、古くても江戸初期の頃の下水道ではないかと
言う事でした。まあそれでも、江戸時代の下水でも日本最古だそうです。
窓が曇っていますが結構肉眼でもよく見えます。
この曇りはガスだとか。。
結構流れが速いです。割とというか綺麗です。
動画も見ますか??
この辺りもブラタモリで歩いていたけど先に何があったのか忘れました。^^;
写真だけ…。
太閤下水は谷町4丁目から徒歩10分ほどの所にあります。
太閤下水
大阪市中央区農人橋1-3-3(市立南大江小学校西側)
交通:地下鉄中央線・谷町線「谷町四丁目」駅8番出口から徒歩5分
Author:mahina
(ギャルママ)