
串本では日米修交記念館へも立ち寄りました。
1975年に建てられた博物館です。

トルコ記念館とセットで600円でした。

こじんまりとしていてこのフロアのみです。
展示物も乏しくてほぼパネルのみ。
屋上に展望広場があるそうですが木で何も見えないとの事でした。

あまり知られていませんが、ペリーの黒船来航より
62年も前に、アメリカの2隻の商船が
串本(紀伊大島)に上陸していたそうです。
公文書に記録のある日米間の接触は初めてだそうです。
トルコの軍艦遭難より100年も前です。

日本ではこの来航は偶然の「漂着」に過ぎないと史実が隠蔽されてきた。
これは、当時の江戸幕府の統治下、よりによって江戸幕府の御三家であり、
絶大な権力を持っていた紀州藩が外国と密に接触するようなことが表沙汰になり、
幕府の信用が失墜することを恐れたためであり、
紀州藩も武士を大島に派遣し、掃討する計画を実行していた。 (
wikipedia)

琉球到着
1791年ボストン船籍の「レディ・ワシントン号」(ケンドリック船長)と
ニューヨーク船籍「グレイス号」(ダグラス船長)は、
中国からの帰路、ラッコの毛皮を交易しようと南日本の港に入港。
石垣島と西表島では現地の人に騙されかけたと書いてあります。
招かれていたのか罠なのか、危険を察して逃げたので上陸はしていません。

串本到着
漂着したと装って寄港したとwikipediaにはあります。
この頃の日本は鎖国をしていたので、
いかなる場合でも、異国船を上陸させるわけにはいきませんでした。
大島の村長はすぐに和歌山城に知らせを送り、異国船には
大勢で小舟で近づいては手を振ったりしたそうで、
「近づくな、と言っているようだが、我々を恐れているようだ。」と
アメリカ側の記録にあります。
日本側文献
寛政3年3月26日夕、南海道紀伊国大嶋浦へ
蛮船2隻漂着、右大嶋浦は口熊野の内也
小舟をおろし魁主は赤将束緋羅紗の由十四五人端船にて
磯部乗廻り、小鳥銃にて鳶鳥を十五六打申候
この後大嶋の水有之所にて水を取申候、
水源より木綿桶にて端船へ水を招きやり候由、
漁船を招き一怪書を贈り申候、本船主紅毛有之候得共、
紅毛とは不相見へ、ムスコヒヤヲロシヤの類と相見へ、
横文字を有之候、去年本船はアメリカ記し…略(HPより)

大島上陸
日本では毛皮を羽織るのは野蛮であり、
全く価値が無い事を知り、交易する意欲はまるで失せたそうです。
水を得るため、複数のボートで大島に上陸し、その後すぐに船に戻りましたが
天気も荒れていたので船は停泊したままでした。
翌日もまた森に入り、水を汲んで木を切ったそうで、
日本側の記録には、鉄砲で足元を撃たれたと書かれていますが
アメリカ側に記録はないそうです。
日本側の警戒を解くため、一緒に乗船していた中国人に
中国語の手紙を書いてもらい渡したそうです。
「貴国を通過するつもりはなかったが、嵐で漂流した。
5日以上滞在することはない、風が良ければすぐに立ち去る。」
と書かれていたそうです。

敵意が無いと知った日本側は、異国船に乗り込み、
薪や米を贈ったとあります。



幸い、紀州藩の追手も悪天候で足止めされたため、
御用とならずに出航。10日間も停泊していたそうです。


この2隻のアメリカ商船が上陸して以降、
異国船が何度もやってきましたが、日本は拒み続け
長崎以外での親書の受け取りはしなかったそうです。

日米修好館の奥には遊歩道があります。

海金剛

休憩所


海は荒れ荒れです。漂着するのも分かりますねー。

泡だっていて、サイダーの様でした。
日米修好記念館和歌山県東牟婁郡串本町樫野1033
JR紀勢本線串本駅よりバス35分
串本町コミュニティーバス大島・出雲線「樫野口」下車、タクシー20分
定休日・営業時間年中無休・09:00~17:00
入場料:250円(小学生以下120円)/駐車場:あり(無料 )40台・
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